「お膝」について考えてみた
地下アイドル Advent Calendar 2022 - Adventarの2022年12月19日の記事です。
自身でもたまに悩む。
自分がこだわる「お膝」とはなんなのだろうか。
今回はそれを考えつつ、フェティシズムについても少し考えを広げてみたい。
さて、辞書的に「膝」の意味を取るのであれば以下のよう。
❶ ももとすねをつなぐ関節部の前面。脚を折り曲げたとき外側に突き出るところ。ひざがしら。
❷ ひざがしらから上の、ももの前面の部分。
❶は我々が通常イメージする「膝」
❷は「ひざ枕」だったり「猫が膝の上に〜」なんて言う時の用法だろう。
なるほどこれも正しかったのか。
まあお膝フェチとして言うのであれば、
「膝枕」というなら、体育座りした山のてっぺんに首を据えてのんびりしたいものではある。
さておき。
世の中には様々な「フェティシズム」なるものが存在し、まだあまり会ったことはないが、「お膝フェチ」も存在する。
あなたの中に今存在しないのであれば覚えておいてほしい、僕がそうだ。
じゃあお膝なら何でも良いのかと言われたら、それは少し話が変わってくる。
①ストッキングや網タイツなど、お膝を覆い隠す物体が存在しないこと
②しゃがんでいること
の2つが自分には重要である。
ついでに言うのであれば、スカートの中には微塵も興味がないので、しゃがむ時はチェキなどに写り込まないよう配慮をしてほしい。
①と②を満たすお膝にのみ心を強く惹かれる。
ここまで話してきてなんなのだが、
僕にはお膝がナニモノであるのか、実はまだわかっていない。
別段の、いわゆる性的興奮の対象でもないし、
お膝はお膝としてしか僕には認識できておらず、なぜそれを求めるのか、それさえも自身で認知していないようだ。
外部から自身を識別してもらう為の符号として、使用しているのか、と言われたら、自身ではそれを否定したい。
ぬいぐるみを持って現場に行くタイプの人とは違う。(希望)
2019年の5月末頃、ある日唐突に目覚めたその感情は3年半を経ても収まることはなく、僕を悩ませたこともある。
仲間がいないから、そこに対してのアイドルさん側のアピールがないから、モチベが上がる理由がないから悩んだのだろうか。
お膝が画角に入っている時、大体は太ももも画角にいる。
反対に太ももが画角に入っている時、お膝が画角から外れることは非常に多い。
それはアイドルさん側の意識として、太ももフェチという一大勢力に対するアピールだろうが、その人の頭の中にない勢力に対しては呼びかけることなどできない、つまりはそういうことだ。
辛いものだ。
「お膝」と「膝」の違いは何だろうか。
おそらく発話者のメンタリティにしか作用をしない。
その対象に対して敬意を払い、僕らは敬称をつける。
実態は変わらないものだ。
僕はこだわるけど。誰かが大切にしているものを、他の誰かが雑に扱って良い道理など存在しないのだ。
さて、話を少し広げ、フェティシズムに、それも、自身が体験する「若干独特なフェティシズム」について。
勢力として、少なくとも現段階においては、弱小にあたる僕のフェティシズムは、素材の供給が少ないことは先程お伝えしたところだ。
数が少ないことは、それ即ち奇怪であると世間一般にあるようで、どうにも辛い。
でも僕はめげない決心をしてる。
なぜか。
たとえば、自分の愛する人が、自分の子供だってそうだが、
「若干独特なフェティシズム」に目覚めたとして、それに負い目を抱えて生きていてほしくない。
今の世の中では少し難しい課題ではあるが。
僕は有名にならなくて構わない、生きてるうちに「お膝」という文化が広まらなくても構わない。
ただ、辛い時はどこかで想ってほしい。
独り戦い、笑って生きていた男のことを。
僕はその「若干独特なフェティシズム」に目覚めてしまった人が、
自身のフェティシズムを、
周囲の迷惑にならない範囲で主張すること。
また周りからの目を気にせずに大切にできること。
それをできる世界を作りたい。
そいつらが笑って生きられるなら、僕は虐げられても構わない。
そう思い、僕は今日も現場で言う。
「しゃがめますか?」